昭和55年03月17日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
神様が人間氏子に求めておられるのは、ただ人間が助かりさえすれば良いというのではなくて、神様ご自身も共に助かりたいと願っておられる。いわゆるこのあいよかけよの助かり。神様の願いはそうなんです。そこからでなければ人間の金光教的に言う、本当の助かりはありません。お願いをしましたおかげを頂きましたと、なるほど人が助かる事さえ出来ればと仰る、その助かりと言うのはギリギリのところは、神も助かり氏子も立ち行くという助かりなんです。
でなからなければその天地がひとつになってとか、陰と陽とがひとつになると。そこからあの生みなされてくるおかげということになって来ない。その生みなされて来るそのおかげ、神様と氏子人間がひとつになる一体になる世界。そういうまぁ私は相対性とか双方性とかと言った様な、最高の学問があるそうですけども、そういう意味は分かりませんけれども、あのうやはり神様と氏子とがひとつになって、喜び合えれるあいよかけよの世界を双方主義、言うなら原理に基づくおかげだと言う風に思うです。
それこそ最高のおかげです。神様も助かって下さる。だからそう言う風な世界をお互いあの目指さなければいけんのです、金光様のご信心は。私が助かりさえすればよいというのでは、そういうあいよかけよで立ち行く道というものは、道も付きませんがその自ずと生み出されて来るおかげに繋がらんのです。その手立てが色々な角度から説かれてある。今日の御理解もやはりそういう神と氏子とが、ひとつになって喜び合えれる世界を願っての、私は御理解だと思うです。
ここでわりとまぁ極端な言葉を使って、「泥棒」とか「乞食」とかとこう思われる。それでねたとえいちいち腹を立てておったり、言い訳をしておったんでは、いつまでたっても神様と一緒になれんのです。言うならばもう神様がご承知の世界。神様が見ておいでになるのだから、聞いておいでになるのだから、人が何と言おうがそういうことは頓着しないで、ただ御神意の深さに触れて行こうとする精進だけが、成されていけば良いのです。そこからいわゆる神様と一体になれる世界があるんです。
それで初めてあいよかけよの世界が、そこから開けて来るんです。だからまたの言葉を、ここで言われる言葉を借りると、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからとかね、人間が神様本位で生きていけば、神様が言うなら氏子人間本位で働いて下さると言うそれなんです。だからもう素晴らしいおかげの生み出されて行く、その土壌の様なものがね、そう言う様になところからしか生まれて来ないのです。いわゆる言うなら土の信心に極まったと風に言われるのもやっぱ同じ。
言うなら神様と人間氏子が、本当にこう一体になれれる世界なんです。だから私は昨日もそれを感じましたが、この頃文男先生が十三日会の時に、「過去三十年の信心を振り返ってみて、私にはひとつも難しい事がなかった」。もうこういう難儀な中を歯を食いしばってこうやって信心したら、こういうおかげを頂いたという話ではなかった。だからそういう話を聞くと、どっかこう変ぇんなこう感じがすると言った様な意味事を、まぁあ話しておりましたが。
昨日最後にあの尾崎先生が、最後の挨拶をしておりましたね総会の後の。でも私もこの先生が言われるようにね、あの本当に言うならば、日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いてきたと言っております。振り返ってみてあそこが難儀であった苦しかった。あぁ言う事がなかったなら、さぞ良かっただろうと言う様な事は全然ない。と言うて言うならその普通一般で言う難儀、まぁ言うならもう馬鹿の様に阿保の様に言われた時代も、言うならあったかも分りませんけれども。それを皆んな信心で受けて来ておる。
神愛として受けて来ておるから、ひとっつも難儀じゃなかったと言う。例え「泥棒じゃあいつばっかは泥棒のごたる奴、乞食のごたるやつばの」っち、例えば言われる場合でも全然腹が立っとらんのだから、「ようしあれがあげなこつ言うたけん、今度言い返してやらにゃいかん」と言った様なものが更々ないということです。「いっぺんな仇討ってやらにゃいかん」という思いが全然ないということです。そういう心の状態にならなければです、あいよかけよの道は開けてこんです。
あいよかけよの道がもうの次元の低ぅいところでうんぬんされますですね。相見互いと親切の施し合と言った様な事を、あいよかけよと言うけど、あれは金光教じゃなくても誰でも言うですもんね。半疑の疑いがのっち言うあれとは違うです、金光教で言われるあいよかけよと言うのは。神様と氏子とがひとつひとつになれれるもう手立てが、あらゆる角度からあらゆる言うならば事柄を通して、神様と一体になれれる教えなんですから。あの文男先生がそういう話をしてからもう幾人もの人が。
「ほんに文男先生だけじゃない、考えてみますともう本当におかげにおかげの花が咲いて、そして実が実ってというおかげばぁっかりでした」ということになるんです、だから。でその中にはね死ぬるの生きるのと言った様な様々な事もあるんです。損した得したもあるんです。馬鹿にされた阿呆にされたと言う所もあるんです。けれどもそれをね全部合掌して受ける受け方というものが、合楽理念には事細かに説いてある訳です。
そういう言うなら信心を身に付けて行きながらの事ですから、ほんに考えてみると文男先生だけじゃない、やっぱ私達もこういうおかげを頂いておった。日勝り月勝り年勝り、それはなぁんでもない事の様にあるけれども、実際は何かのあるたんびんに、神様との交流というものは、深められて行ったということなんです。だからね私はこの生き方を身に付けていかなかったらですね、いつまでたっても難儀は絶えないと思うですね。おかげで信心が出来ますと言うのですよね、いつもここで言う様に。
昨日麻生さんの発表を聞いておってもやっぱそうです。本当に信心を頂いておったおかげでと、もう言うならば日勝り月勝りに、言うなら御神縁の間に間に、成長のお育てのおかげを頂いておる、おかげを受けて来ておるとこう言うのです。その手立てをひとつ本気で覚えさしてもろうて、同時に神様がいつも這えば立て、立てば歩めと言う様な親心を持って、私共の上に様々な形で現れて下さるんだ、ということをいつぅも思うとかにゃいけん。はぁこれによってまたお育て頂くんだなという訳なんです。
合楽の全部の方達がです、それこそ文男さんだけではない、正義先生だけじゃない、佐田さんだけじゃない。皆がんな10年信心すれば10年信心して、振り返ってみると様々な事がありましたが、みぃんなおかげの元でしたということ。お徳を受ける元でした、力を頂く元でしたと言う様なです、言うならそういう結果を見る信心でなからなければ、あいよかけよで立ち行くということにならんです。
昨日ある方がお届けされました。最近お日届けを5千円ずつお初穂なさる。ところがお知らせを頂かれて、そのうそれこそ5千円手が切れるような5千円札が沢山こうある。それをこうやって数えておられたら、何枚目かの下は後は1万円札ばっかりだったと言うのです。もう2人でそれこそもう、あのうひっくり返って笑いました。「神様っちゃ抜け目がないね」と言うてからから。だから抜け目がないねということはどういうことでしょう。私共がしゃんとしなければならない。
たとえ馬鹿と言われても阿呆と言われても、いや乞食じゃ泥棒じゃと言われる様な事があってもね。そういう時に只ねぇごつ言いよるかと言うのじゃなくて、言われれば言われる元があるのだと。はぁ本当これはこっちがしゃんとしなきゃ、神様の顔に泥を塗るような結果になるぞ。そういうことではあい済まんと言うて、一段と信心を進めて行く。それが神様が這えば立てなんです。氏子が本気で一生懸命毎日5千円づつの、まぁもちろんご造営の、というなっておるからという意味でしょと思うんです。
5千円の力よりも1万円の徳を与えたいという、神様の切なる願いがですそんなお知らせを下さったそうでしょうが皆さん。神様は抜け目がないとか神様はなかなかと言う。これはまぁねそのうまぁ私が昨日、本当にひっくり返って笑い出す思いがしたのはです、その神様のその切なるその願いをそのそこに聞くから、思うから「あぁ神様っち抜け目がないな」と。どういう風に抜け目がないかと言うと私共が信心が抜けちゃならん。そこから安心しちゃならん、俺はもうこれだけの事が出来ると思うちゃならん。
一段と信心を進めさせて下さろうとする働きが、何枚か5千円だった下は1万円札ばっかりだったと。よし言うなら1万円の例えばなら元気を出すとするか、神様は必ずおかげを下さります。そして5千円の徳よりも1万円の力を頂くのです、お徳を受けるのです。神様は這えば立ての働きの中ににゃそういう働きもございますですね。それを私共がやっぱり我情我欲があるもんですから、ついつい慣れてしまっていつまぁで経ったっちゃ、あの100円のお初穂でと言った様な事では、いつまで経っても育たないです。
神様からいっつもね、言うならば言うなら倍増、倍増と言う様な働きがあっておるんだというね、何かの機会何かの切っ掛けにです。それがでけ分かったらそれに進んで行くことが信心の育って行く事。しかも育って行くその在り方というものが、あいよかけよで育って行くのです。これはもう金光教だけの表現ですね、あいよかけよで立ち行く世界と言うのは。神も助かり氏子も立ち行くと言う様な表現は、金光教だけのまぁ表現なんです。それを例えば低いところで頂きますとね。
まぁお互いに親切のし合いと言った様に申します。それは言うなら嘘じゃないでしょうけれど、そんなもんじゃないです。あいよかけよというのは、神様と私共が一体になる手立てなんです。神様の神愛その御神願その働きが様々な形になって現れてくる。中にはそれこそ人の前で恥じをかかにゃんようなね、「お前は泥棒のごたるやつね」とか「乞食のごたるやつね」と言われる様な事もあってもです、腹は立てなと。そう言う時に信心の帯をせよとこう仰る。
信心の帯をするということは、ほっとここは合楽理念を持ってすれば、どう頂くかということなんです。そこには全然問題がない。いやむしろお礼を言う様な答えが出て来るんです。そういうふうにね育てられに育てられ、鍛えられに鍛えられていかんとなかなか信心が進まんです。「本気でいっちょ五千円をお供えしよう」と思うたら、もう間もなく神様は1万円のお供えをさせようとしておられるです。そこのところにです神様がいよいよもっと深くもっと密にです。
神様が5千円がたよりも1万円がた深うなろうとしておられる訳です、二人の仲が。神と氏子の中がね。そういう働きをまぁそのお夢の事じゃないですけれども、様々な形であっておるんですけれども気がつきません。いや気がついておっても「そげにゃでけん」と言った様なですね、あの神様のその育てて下さろうとする、働きを無碍にしていると言った場合も又沢山あろうかと思う。また失敗をしたと言うて腹を立てたりね、言い訳をしたと言った様な事もあろうかと思う。
けれども本当のあいよかけよの道がね、神様との言うならば天と地がひとつになって、喜び合うような世界というのは、そういう信心が育てられてからの事でございますね。そこからですもっともっと言うなら、おかげの世界が広がって来る事でしょう。喜びの世界が勿論広がって来る事でしょう。神様はいつもそういうまぁ言うならば、よりおかげを下さろうとする働きだけしか、あっていないということを、ひとつ思い込んどかにゃいけませんですね。
どうぞ。